ベンジャミン・フランクリンとは?


■ベンジャミン・フランクリン

1706~90年、アメリカボストン生まれ。
実業家、科学者、哲学者、教育者、政治家。

若いころから印刷業と新聞発行で成功する。

後に電気の研究に没頭、凧で雷と電気の実験をしたり、
避雷針を発明したりしたことでも有名。

「アメリカ建国の父」、「全てのヤンキー(アメリカ人)の父」
とも言われており、アメリカ独立宣言や、アメリカ合衆国憲法で
中心的な役割を果たした。

ヤンキーとは、アメリカ人の意味。)

 

著書「フランクリン自伝」、「若き商人への手紙」などは、
今もなお、世界中の人々に“全ての成功哲学の原点”として
読み継がれている。

フランクリン自伝は 各国で広く読まれ、文学書としてはもちろん、
個人の幸福実現、成功への手引書として、多大な影響を与えた。

200年以上にもわたり、聖書と並んで読み続けられてきた。

また、フランクリンの存命当時、フランスの家庭では、暖炉の上に
フランクリンの肖像画を飾るのが、流行していたと言われる。

 

以下、ベンジャミン・フランクリンを称える 偉大な人物たち

■アメリカ2代目大統領、ジョンアダムズのフランクリン評

ジョン・アダムズは、フランクリンと多くの点で対立して
いたと言われる。

言わば、フランクリンの敵であった ジョン・アダムズでさえ、
フランクリンについて、以下のように語っている。

「フランクリンの名は、当時のヨーロッパの代表人物、

たとえばライプニッツ、ニュートン、フリードリッヒ大王、
ヴォルテール、といった偉人の名前よりも、世界中の一般の
人々の間で 知られていた。

彼の名は、王侯貴族、聖職者、科学者だけでなく、台所の下働きの
ものたちにまで、『人類の友』として、知られていた。

●正岡子規(俳人、歌人、国語学研究家)

フランクリン自伝について

「貧乏なる植字工のフランクリンが著々として成功していくところは、
なんとも言われぬ面白さであった。

この書物は、有名な書物であるから、日本にもこれを読んだ人は
多いであろうが、余の如く、深く感じた人は、おそらく外には
あるまいと思う。

●カール・マルクス(経済学者)、フランクリンついて

「新大陸の最初の偉大な経済学者」

●ディビッド・ヒューム(哲学者)

「新世界における最初の哲学者、かつ最初の偉大な文筆家」

●フランク・ベドガー(アメリカナンバー1の保険のセールスマン)

「人類史上、他にいないほどの天才」

●ベンジャミン・フランクリン略歴

1706年、アメリカのボストン生まれ。
父はピューリタンで宗教的自由を求めて、アメリカから
移民としてボストンにわたってきた人で、石鹸やロウソクを
作って生計を立てていた。

家は貧しく、そのため、フランクリンも八歳から、
十歳にかけて、二年間しか学校には通えなかった。

 

12歳のときから、腹違いの兄が経営する印刷所で、
奉公働きに出た。フランクリンは大変な本好きであった。
印刷の業務を覚えるかたわら、本をたくさん読み、
また、文章を書く練習をした。

兄の発刊する新聞にこっそりと、ペンネームで投書したりもした。
17歳のとき、兄との衝突が原因で、フィラデルフィアへ一人で旅だった。
ほとんど流れものような風体であったようだ。

本好きのフランクリンは、21歳のとき、勉強会・読書会の
「ジャントー・クラブ」というのを友人たちを集めて、活動を
広げていった。

 

23歳で印刷業で独立して、そして、
新聞の「ペンシルバニア・ガゼット紙」を買収し、
面白くて、ためになる新聞を発行することを目指した。

25歳のときには、広く声をかえて、会員制の図書館を
つくったが、これが世界最初の公立図書館と言われている。

本を読む人を増やしていこうという趣旨である。
26歳で、「カレンダー」を制作販売しはじめた。

役立つ言葉や行事を書きこんだ便利なカレンダーである。

そこに書いた言葉をまとめた、
「富へいたる道」は大ベストセラーとなった。

今でも、欧米では、お金儲けの教科書として愛読されている。

 

フランクリンは42歳になると、共同事業者に仕事を任せ、
印刷、出版の仕事からは引退した。

その後は、電気の研究や、著作、公共活動に没頭する。
50歳のとき、イギリス学士院会員に選ばれた。
当時の学者としては、最高の栄誉である。

さらに、オックスフォード大学から学位も受けている。
イギリス本国でも、国民的ヒーローとしての人気があったことが、
その後のアメリカ独立にはおおいに役立つこととなる。

51歳には、ペンシルバニアの代表として、イギリスにわたり、
イギリスとアメリカの関係改善に、努力を傾けた。

その後は、事実上、アメリカ前植民地の代表として、
重大な役割を負わされた。

 

ところが、1773年には、ボストン茶会事件が起こり、
イギリス本国との関係がおかしくなり、ついに、1775年、
フランクリン65歳のとき、武力衝突にまで発展した。

ここからは、フランクリンはアメリカ独立のために、
全力をつくしていくことになる。

1776年、アメリカの独立宣言では、
ジェファーソンらとともに、起草委員の一人として、
署名している、70歳であった。

その後は、アメリカ支援の国際世論をつくるため、
フランスで活躍し、1778年に米仏同盟条約を結び、
イギリスに対し、優位な立場をつくりあげた。

そして、ついに、1783年には。パリ条約で、
イギリスにアメリカ独立を承認させた。

 

1785年病となり帰国するが、アメリカ国民は
彼を休ませることなく、1787年の憲法会議に参加し、
独立した13州の協調と統合になくてはならない働きをする。

大統領制や上院下院の二院制も、フランクリンのアイディアが
大きく影響したという。

憲法制定会議のフランクリンの演説は有名である。

「今はベストかもしれないが、いつまでも最高の憲法と
言えないと思う。」

という彼の個人的意見は、
その後、修正憲法を生む力となったと言われている。

フランクリンの先見性と柔軟性に驚く専門家の意見も多い。

 

1790年、84歳でこの世を去る。
アメリカ議会は満場一致で、一カ月の喪に服し、
フランス国民議会までもが、三日間の喪に服したという。

まさに「人類の友」の生涯であった。

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