“因果応報”は真理。偉大な人物も確信


【其の72】因果応報は、仏教の教えであり真理。

私は、長老教会の会員として、神仏を深くうやまい仕えるよう
教えを受けて育った。

それで、この派の 真理と認めている教えの内容の中には、
たとえば、「神の永遠の意志」「神の選び」「罪刑の決定」など
私には 理解しがたいモノであり、信じられないモノもあった。

また、日曜は私の勉強日だったので、日曜の集会には早くから
出ないことにしていたが、だからといって、宗教上の考えや 方針、
態度などを、全く持たないわけではなかった。

 

たとえば、神の存在や、神が世界を創造し、摂理に従ってこれを
治めること、神の もっとも嘉し給う奉仕は、人に膳をなすこと
であること。

そして、霊魂の不滅、すべての罪と徳行は、現世、あるいは、
来世において、必ず罰せられ、または、報いられる
こと
などについては、私は決して、疑ったことはなかった。

これらは、あらゆる 宗教の本質 であると考え、そして、
我が国の あらゆる宗派の宗教にも見いだせることである。

だからこそ、私はすべての宗派を尊敬していたのだ。

因果応報は、日本においても昔から、

善い行いをすれば、善い結果が返ってくる。
逆に、悪い行いをすれば、悪い結果で返ってくる。

自分が今、幸せか、不幸せか、その 根本となる原因は、
それまでの 自分の行い、行動によって決まる。

という 因果応報の教えが 教訓的に教えられている。

尚、「 因果応報 」という言葉は、仏教の教えを
要約して表した言葉である。

もっとも、どの宗派でも、この本質的なものの外に、
人間の道徳性を奮いたたせ、サポートしたり、向上させるような
傾きを持たず、むしろ、私どもを分裂させ、互いに不仲にさせる
ような性質の信仰箇条が、少しばかり含まれている。

そのため、度合いに応じて、尊敬の程度は違った。

私はどんなに悪い宗派でも、いくらかは役に立つと考えていた。
そのため、すべての宗派を尊敬していた。

だから、他人が自分の宗教に対して抱いている信仰の念を
弱めるような議論は、一切避けていた。

 
そして、ここの植民地にも、徐々に人が増えてきた為、新しい
礼拝所が 次々に必要になった。

礼拝所を建てる際には、寄付によって建てられるのだが、
そのような時、私は宗派かんけいなく、寄付する額が少ない
としても、寄付を拒むようなことは、絶対に しなかった。

<お金を増やす女性の条件 / 使徒パウロの教え>

by 上田真司

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