フランクリンの成功法則を大公開!


【其の10】フランクリン、ニューヨークへ行く

兄は、1720年か21年に新聞の発行を開始していた。

その新聞は、ニューイングランド新報と言う紙名だが、
これは、アメリカで2番目の新聞であり、
それよりも前に出たのは、ボストン新聞だけだったのである。

私が思うに、アメリカに新聞紙は1つで十分だと思う。

だから、新たに印刷屋を立ち上げても 成功はしないだろうと言って、
兄の友人の中には、止めさせようとする人もいたことを思い出す。

ところが、1771年の年、
アメリカで発行されている新聞紙の数は、25を下らないのである。

 

しかし、兄は この仕事を立ち上げ、フランクリンは 活字を組んで印刷をし、
それから、読者に配布することまでさせられた。

兄の友人には有能な人物が何人かいて、この新聞に小文を寄せるのを
楽しみにしていた。

それは、新聞の信用を高める効果もあったため、売れ行きも増加した。

この人たちは、絶え間なくフランクリンたちのところへ出入りしていたが、
会話の内容や、その文章が 読者に好評であるなどの話を聞くうちに、
フランクリンは刺激を受けて、腕を試してやろうという気持ちが芽生えた。

しかし、まだ子供ではある上に、また フランクリンが書いたものだと
兄が知ったら、新聞に掲載するのを絶対に反対するだろう。

 

そこで私は考えた。

フランクリンの筆跡を変えて 匿名の文章を書き、夜中に、
印刷所の戸口の下から、中に そっと入れておくことにした。

次の日の朝、兄はその文章を発見し、いつものように友人の
寄稿家連が来ると、その話を持ち出した。

全員、その文章を読んだ後に、フランクリンの耳に入るところで
批評するのだが、しきりに褒めちぎる上に、誰が書いたのか?
と話題になった。

その様子を見ながら、 フランクリンは嬉しくてたまらなかった。

しかし、今になってよく考えてみると、兄の寄稿家連たちは、
フランクリンが思っていた程、有能な試験管ではなかったのだと思う。

 

とは言え、これに味を占めて、その後も何編か書き 同じようにして
印刷所に届けたが、どれもやはり評判がよかった。

フランクリンはこの秘密を誰にも話さずにおいたが、
やがてネタ切れになってしまい、書きたくても書けなくなった為、
ついに打ち明けた。

その時からフランクリンは、兄の友達からも一目おかれる存在になった。

しかし、兄は このことをあまり喜ばなかった。

それもそのはず、兄はこれをきっかけに フランクリンがより一層、
生意気になるばかりだと、考えたからである。

 

この頃から、兄と私は仲が悪くなり始めていたが、
おそらく、これも その原因の一つだったに違いない。

確かに 兄弟ではあるが、兄としては、

「自分が主人で 私は奉公人なのだから、
「ほかの奉公人たちと同じように勤めるべきだ!」

と考えているのだと思う。しかし、私は私で、

「兄弟なんだから、もっと寛大にしたっていいじゃないか。
こんなことまでさせるなんて、人を馬鹿にしている」

と思っていたのだ。

 

フランクリンたちは、2人の言い争いを、何度も父親に
相談したのだが、ほとんどの場合、父は、フランクリンに味方を
してくれたのだった。

きっと、兄よりも フランクリンの話す内容に 道理が通っていた
のかも知れないし、伝え方が上手かったのかもしれない。

しかし 兄は、些細なことでも激しく怒り出し、その度に、
フランクリンを殴りつけるので、まったくもって 言語道断である。
と、ひどく憤慨したものだ。

もう、年季奉公は とても我慢できないような気がして、
機会があったら 期限を短くしてやろうと、いつも考えるように
なったが、その機会が思いがけない形で訪れた。

 

今は 忘れてしまい思い出せないが、何らかの政治問題について、
新聞に載せた文章の一つが、州会の怒りを買ったことがあった。

兄は、容疑者として強制的に連行させられ 厳しくとがめられた上に、
おそらく、筆者の名前を何としても 明かさなかったからであろう。

兄は、議長の命令で、一カ月の禁錮刑に処せられた。

私も、容疑者の一人として連行され 参議会の
取り調べを受けたが、特に何かを暴露したわけでもないのに、
その行いを改めるよう 言い聞かせるだけで帰された。

多分、奉公人だから、主人でもある兄の秘密を守る義務が
あると考えてくれたためであろう。

 

個人的には、兄とは仲がとても悪かったが、兄の禁錮刑には、
フランクリンも 非常に憤慨して、兄の禁錮中、新聞のことは
私が切りもりし、大胆にも、当局に対する当てつけを掲載したりした。

兄は、とても感謝してくれていたのだが、
他の人たちは、非難中傷が 好きな若者と思った様子で、
白い眼でフランクリンの事を見るようになった。

やがて兄は釈放されたが、それには州会の命令がついていた。

「ジェイムズ・フランクリンは以後、
ニュー・イングランド新報なる新聞を発行するを得ず」

というものである。

 

このピンチをどう切り抜けたらいいのかと、
友達に印刷所へ集まってもらい、相談することにした。

すると、紙名を変えて 命令にひっかからないようにしたらいい、
という案も出たが、兄は 「それでは具合が悪い」 と考えた。

それよりも、今後は ベンジャミン・フランクリンの名義で、
継続して発行しているというのでは、やはり 州会に文句を
言われる可能性が高い。

そこで、もとの 証文の裏に、完全に解雇した考えの内容を記して
フランクリンに返し、必要な時には それを出して見せることにした。

その一方で、今まで通り フランクリンを働かせておくために、
新しく別に、残りの期間の契約書を作成しそれに署名させ、
こちらは秘密にしておく、ということを考え出した。

いかにも見え透いた策ではあったが、とにかく直ちに実行され、
上記の提案の通り、新聞紙は数カ月の間 フランクリンの名前で
発行された。

その中で、また新しい衝突が2人の間に起こった。

 

フランクリンは、兄にしても、新しく結んだ契約書を
持ち出す気はない、と考えて、自分の自由を主張した。

こんな、相手の弱点につけこむようなことをしたのは、
フェアではない。だから、フランクリンはこのことを、
生涯の最初の過ちの1つに数える。

しかし、兄は怒り出すと必ずといって良いほどフランクリンを
殴りつけるので、それを、ひどく憤慨していたさいであったから、
後世でない、ということもさまで 気にならなかったのである。

ただし、兄は それ以外では特に意地の悪い人では
なかったので、おそらく フランクリンが生意気で、
腹の立つことばかりするので、怒ったり 殴ったりしたのだろう。

兄は、フランクリンがどうしても 出ていくつもりであるのを知ると、
ほかの印刷屋に、働き口が見つからないようにしてやろうと、
町中の印刷屋を歩いて周った。

その影響からか、誰もフランクリンを雇ってくれる者はいなかった。

 

そこで フランクリンは、印刷屋のある一番近いところは、
ニューヨークだから そこへ行こうと考えた。

それに、フランクリンも、その頃には 役人たちから目を
つけられていたので、兄の件で、州会がとった横暴な処置から
察すると、いつまでもここにいては、いづれ 酷い目に会わない
とも限らないと考えられた。

その上、宗教について 不謹慎な議論を口にするもので、
信心深い人たちから 「恐ろしい不信心者だ」、「無神論者だ」 と
後ろ指を差されるようになっていた。

そのため、ますますボストンから離れたくなったわけである。

 

ところが、フランクリンの腹はすでに決まっていたのだが、
今度は 父も兄の味方をするので、おおっぴらに出ていこうとすれば
出て行かないようにと、何かしらの策がとられる事が分かった。

そこで、友達のコリンズに頼んで、逃げ出す工夫をしてもらった。

彼は、ニューヨークの帆掛け船の船長と相談して、
知り合いの友人が、性の悪い女にひっかかって妊娠させてしまい、
その女の身内が、強引にも嫁にもらえと迫るので、
人中に顔を出すことも、大っぴらに逃げ出すこともできないのだ。

ということにして、フランクリンを乗せてもらうことに
話を決めてくれた。

 

そこでフランクリンは、本の一部を売って 少しばかり資金を作り、
こっそりと船に乗り込んだが、風の具合がよく3日後には
ニューヨークに上陸した。

その時フランクリンは、やっと17歳。
家を離れることおよそ300マイル。

誰かへの推薦状を持っている、というわけでもなければ、
知り合いも全くいない土地、あるのは極わずかのお金だけ。

<敵を味方に変える上手な話し方 / フィラデルフィア上陸>

by 上田真司

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